人間の意識をデータ化し、AI融合できれば不老不死は可能か?
今日は、久しぶりにパソコンで、2015年に上映されたアメリカ映画のDVD『チャッピー』を観ました。(写真はソニー・ピクチャーズより)
A.I.(人工知能)を搭載したロボットが、考え、感じる、といったシンギュラリティーが訪れた世界観の映画を観て、デカルトの心身二元論の問題をラディカルに切り込んだ作品ということに驚嘆しました。
デカルトの心身二元論とは!?
17世紀、フランスの哲学者デカルト(1596~1650)は、
人間は生まれながらにして「理性」を与えられていると考え、
その理性の力を使いながら「原理」をとらえ、
あらゆる法則や真理を探求しようとしました。
デカルトは経験的な知識から本当のことを見出そうとはせずに、一度、過去の思想全てをリセットさせ自分の頭だけで考え、デカルトの頭のロジックから絶対確実な原理を探求しようとしました。
デカルトは哲学を「知恵の探求」とみなし、一本の木に例えます。
一番重要である木の根は、
感覚的な世界の奥にある「原理」を探求する学問である
形而上学であり、
幹は自然学、
枝は機械学や医学、
道徳からなります。
デカルトは、
あらゆるものを徹底的に疑い、
それでも疑うことのできないものがのこったならば、
それを真理として受け入れるという『方法的懐疑』を用いました。
私達は感覚を信じて生活をしていると思います。
例えば、前をあるいている女性が振り向いたら男性だった。などです。
デカルトは感覚は時には私たちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは、何も存在しないと想定しようとしました。
疑って疑って、自分の存在や、現実までも疑うという疑いの無限ループは続きます。
そして、最後に、
わたしたちが見覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、
しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。
デカルト著『方法序説』岩波文庫pp.45-46
と述べ、
懐疑を徹底し、とにかく疑えるものを論理的に疑ってみたのです。
この人生の消去法を用いることにより最後には絶対に疑えないことが現れてくるのです。
このような演繹法により、でてきた答えが、
しかし、そのすぐ後で、次の事に気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。
そして、「わたしは考える、ゆえにわたしはそんざいする[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]というこの真理は、・・・
デカルト著『方法序説』岩波文庫pp.45-46
と述べております。それは、疑う自分の存在でした。
そうですよね、疑っている私が存在しなければ考えられないのですから。
「考える私」の発見により、自我が確立しました。
疑うことが出来ない「私」、
「私」の本質は思惟。
思惟は「私」の全て。
そうすると…
身の回りにある机や本棚などの物質はなにも考えていないように感じます。
「私は考える」、
「物は考えない」、
とすると・・・。
「私という精神」と「何も考えない物質」は全く別の存在となります。
デカルトは、「思惟する私(精神)」と「空間を占めること(物体)」を区分し、
ハッキリと境界線を引きました。
精神と物質の両者は全く別物であるとするのが
心身二元論です。
そして・・・
デカルトは、
身体と心は区別されているのを理由に、肉体が滅んでも精神は残ると考えました。
これを、霊魂不滅の証明と呼びます。
プラトンの『パイドン 魂の不死について』でも、霊魂の不滅性について説いています。
さらに・・・
デカルトは、
世界は、動物は機械の一種であり、死とは機械の故障に過ぎないと述べております。
映画に登場するチャッピー(22号)は、
「喜怒哀楽のある思惟する私」であり、
ロボット部分は機械であり、独立した実体です。
創造主である人間の身体の故障により、
AIチャッピーは、あることを考えます。
別の「新しいロボット」に人間の意識を転送しようと・・・
もし、
意識だけをバーチャルリアリティーの一つの世界に転送できるのであれば、
身体はなくても永遠の生命の獲得は可能なのであろうか?
そして、デカルトのいう『霊魂不滅の証明』が真だとするならば・・・
さらに、
人間の身体を一時的なボティとみなすことが可能だとすると、
意識をメモリーチップに一時的に保存しうることも可能であるし、
別のボディに移し続ければ不老不死は可能だと考えられますが・・・
このような時代は訪れるのだろうか!?