哲学をする者は、死を恐れてはならない!?
私たちにとって、絶対に避けることの出来ないのは、いつかは死ぬということ。
死についてリアルに考えてみると、自分の存在は、常に死という可能性の中にいることに気付きます。哲学を学ぶことによって死への恐怖心は無くなるのかどうかについて考えていきたいと思います。
ソクラテスの弁明で、ソクラテスは、『哲学をする者は死を恐れてはならない』と語っております。そこで、まずは、この「死」という問題を、哲学を通して考えてみます。
ソクラテスはアテナイ(アテネ)の石工のソプロニコスを父とし、産婆パイナレテを母としてこの世に生を享けました。生年は不明で、没年は紀元前399年ということが分かっており、この年にソクラテスは死刑に処されました。このことに関する一つに史的資料が『ソクラテスの弁明』です。
ソクラテスの友人のカレイポンがデルフォイに出かけて、神殿に使える巫女さんに「ソクラテスよりも知恵のある者はいる?」と尋ねました。
すると、
巫女の答えは、「ソクラテスよりも知恵のある者はいない」との答えが返ってきました。
この答えを友人のカレイポンから聞いたソクラテスは驚き、いったい神は何を私に言おうとしているのか?そしていったい何の謎をかけているのかと疑わしく思います。そのように思った理由は、ソクラテス自身は、「自分は知恵のある者では無い」と自覚していたためです。
悩んだ挙句、ソクラテスは妙案を思いつきました。
知恵があると思われている人たちを訪ねて、
その人が自分よりも知恵があることが判明できれば、
デルフォイでの神託が間違いであったことが証明されるということを。
ソクラテスは、
他の人たちから知恵のある者と言われている人物を訪ねて問答を繰り返し、観察を続けました。
そこで明らかになったのは、その人物達は、
実は知恵が無いことに気付きました。
ソクラテスの弁明では次にように書かれています。
この人間より、私は知恵がある。なぜなら、この男も私も、おそらく善美の事柄は、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何かを知っているように思っているが、私は、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、私の方が知恵があることになるらしい。つまり私は、しらないことは、知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。
これは、つまり、ソクラテスは、
自分がその「知」を知らないをとを知っているのです。
他の人たちから知恵のある者と言われている人物は、人間として生きていくうえでもっとも大切なことである善美のことがらについての「知」を持っていないことさえも知らないのです。
これが、有名な『無知の知』です。
この「無知の知」から命題である「死ぬこと」について考えてみると、
死を恐れることは、無知の知の精神に反するのではないでしょうか。
なぜならば、死を経験したことのある者はいないし、
実際に、今、生きており、死を知っている者はいません。
それなのに「死は恐ろしい」と考えるのは、
「死は恐ろしいものである」と「知る」ということに他なりません。
弁明では、
ひょっとすると、それはまた人間にとって、一切の良いもののうちの、最大のものかもしれない。それを害悪の最大のものであるのは、もう知れたことのように恐れているのです。どうみても知らないのに、知っていると思うのかの不真面目な無知というものに、ほかならないのではないか。
と語っております。
私たちは、死を経験したことがないのに「死は害悪の最大のもの」と理解しているのは、「かの不真面目な無知」のことであるかと思います。
少し、話はそれますが、私たちが人間であるということの真の意味を考えてみます。
私たちは普段の生活の中で自然に自分の命を守る行動にでます。
例えば、道を歩いていて自動車が急に飛び出してきたら、咄嗟に避けると思います。
このことから、ソクラテスが「死は恐ろしい」というのは、
「無知の知」に反しているから恐れてはならないと言っても、人間の自然本能はソクラテスの考えを受け付けないのではないでしょうか。
しかし、私たちは、自然本能だけの世界だけで生きているわけでもありません。
例えば、お腹がすいて、コンビニエンスストアに入っていきなり、その場でおにぎりを食べたりしないと思います。
当たり前の事ですが、食欲は自然本能から起きる行動ですが不正な行為です。
つまり、善悪、正義と不正、美と醜といった価値に従って行為する原理が人間には備わっているのです。
そう考えると、
自然本能からの「死は恐ろしい」との反論は崩壊すると思います。
ソクラテスは、判決の不正により不当逮捕され裁判で死刑が確定しておりました。
ソクラテスの友人のクリトンは脱獄を勧めましたが、
ソクラテスは脱獄して長く生きるよりも、
実際は無罪なのですが、死刑になる方がよいと語ります。
法は確かに不完全で、そのせいで牢獄で過ごすことになり死刑判決もでました。
脱獄は不正な行為であり、
不正を犯してまで生き続けるということは、
人間として生きることに値しないのではないかとソクラテスは考えます。
ソクラテスの弁明では、
大切にしなければならないことは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ。
と語っております。
死を恐れてはならないという主張の根拠は、
「死を知らない」と言うことだけではなく、
不正を行うことが最大の悪だと理解しているからです。
すぐれている人とは、何がすぐれているのか、という問いに対してソクラテスは、「魂である」と答えます。
私たちが人間として生かされている始原が魂であり、人間は身体と魂によって構成されております。
地位や名誉が高く、財産が沢山あるから優れているとか必ずしもそうとうは言えません。
一番大切なのは「魂の健康」です。
そして、「思慮と真実」に気を使うこと、それが魂の配慮であります。
不幸の原因は、私たちの魂が分裂してしまうことにあります。
身体の欲情は、快楽を求め苦痛を避け、この欲情は魂を肉体にくぎ付けにし、身体が肯定することは何であっても真実であるとみなすようになります。
不健康な魂は快楽を求めるので、金銭や権力を多く所有することを善とみなすようになります。
このような不幸な状態から脱するためには、人間の持つべき徳などのことについて、毎日対話することが人間にとって最大の善きことであるかと思います。
友人との問答をとおして、これまで生きてきた生と価値観を吟味し、学び続け、人間革命をし続けることが真の人間の生きる生活であります。
死に際し、肉体が滅んでしまっても、決して滅ぶことはなく、この世界を離れても永遠に生き続けると思います。
そして、今生の善い思い出は魂に記憶され、魂の生は決してこの世で終わるのではなく、永遠に生き続けます。肉体はいつか滅びますが、魂は不死であり永遠に続き不消滅であり、生き続けます。不消滅であるがゆえに、哲学を学ぶ者は死を恐れてはならないのです。